時間を金で買う現代

山極壽一 (京都大学教授)
2012年05月20日

◎買えぬ信頼、取り戻そう

「時間どろぼう」という言葉を記憶している読者は多いだろう。ドイツの作家ミヒャエル・エンデ作「モモ」に出てくる話である。時間貯蓄銀行から派遣された灰色の男たちによって、人々の時間が盗まれていく。それをモモという少女が活躍して取り戻す。そのために彼女がとった手段は、ただ相手に会って話を聞くことだった。このファンタジーは現代の日本で、ますます重要な意味をもちつつあるのではないだろうか。

時間とは記憶によって紡がれるものである。かつて距離は時間の関数だった。だから、遠い距離を旅した記憶は、かかった時間で表現された。「7日も歩いて着いた国」と言えば、ずいぶん遠いところへ旅をしたことになった。その間に出会った多くの景色や人々は記憶の中に時間の経過とともに並び、出発点と到着点を結ぶ物語となった。

しかし、今は違う。東京の人々にとって飛行機で行く沖縄は、バスで行く名古屋より近い。移動の手段によって、距離は時間では測れなくなった。時間にとって代わったのは費用である。「時は金なり」ということわざは、もともと時間はお金と同じように貴重なものだから大切にしなければいけないという意味だった。ところが、次第に「時間は金で買えるもの」という意味に変わってきた。特急料金を払えば、普通列車で行くより時間を短縮できる。速達郵便は普通郵便より料金が高いし、航空便は船便より費用がかさむ。同時に、距離も時間と同じように金に換算されて計算されるようになった。

しかし、これは大きな勘違いを生むもととなった。金は時間のように記憶によって蓄積できるものではない。本来、お金は今ある可能性や価値を、劣化しないお札や硬貨に代えて、それを将来に担保する装置である。言わば時間を止めて、その価値や可能性が持続的であることを認める装置だ。しかし、実はその持続性や普遍性は危うい約束事や予測の上に成り立っている。今の価値が将来も変わることなく続くかもしれないが、もっと大きくなったり、ゼロになるかもしれない。リーマン・ショックに代表される近年の金融危機はそのことを如実に物語っている。

時間には決して金に換算できない側面がある。たとえば、子どもが成長するには時間が必要だ。お金をかければ、子どもの成長を物質的に豊かにできるかもしれないが、成長にかかる時間を短縮できない。そして、時間を紡ぎ出す記憶をお金に換算することはできないのだ。社会で生きていくための信頼をお金で買えない理由がここにある。信頼とは人々の間に生じた優しい記憶によって育てられ、維持されるからである。

人々の信頼で作られるネットワークを社会資本という。何か困った問題が起こった時、一人では解決できない事態が生じた時、頼れる人々の輪が社会資本だ。それは互いに顔と顔とを合わせ、時間をかけて話をすることによって作られる。その時間は金では買えない。人々のために費やした社会的な時間が社会資本の元手になるのだ。

私はそれを、野生のゴリラとの生活で学んだ。ゴリラはいつも仲間の顔が見えるまとまりのいい10頭前後の群れで暮らしている。顔を見つめ合い、仕草や表情で互いに感情の動きや意図を的確に読む。人間の最もまとまりのよい集団のサイズも10~15人で、共鳴集団と呼ばれている。サッカーやラグビーのチームのように、言葉を用いずに合図や動作で仲間の意図が読め、まとまって複雑な動きができる集団である。これも日常的に顔を合わせる関係によって築かれる。言葉のおかげで人間は一人でいくつも共鳴集団を作ることができた。でも、信頼関係を作るには視覚や接触によるコミュニケーションに勝るものはなく、言葉はそれを補助するに過ぎない。

人間が発する言葉は個性があり、声は身体と結びついている。だが、文字は言葉を身体から引き離し、劣化しない情報に変える。情報になれば、効率化が重視されてお金と相性が良くなる。現代の危機はその情報化を急激に拡大してしまったことにあると私は思う。本来、身体化されたコミュニケーションによって信頼関係を作るために使ってきた時間を、今私たちは膨大な情報を読み、発信するために費やしている。フェイスブックやチャットを使って交信し、近況を報告し合う。それは確かに仲間と会って話す時間を節約しているのだが、果たしてその機能を代用できているのだろうか。

現代の私たちは、一日の大半をパソコンや携帯電話に向かって文字と付き合いながら過ごしている。もっと、人と顔を合わせ、話し、食べ、遊び、歌うことに使うべきなのではないだろうか。それこそ、モモがどろぼうたちから取り戻した時間だった。時間がお金に換算される経済優先の社会ではなく、人々の確かな信頼に基づく生きた時間を取り戻したいと切に思う。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2012年05月20日掲載「時間を金で買う現代・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。