領土・国境へのこだわり

山極壽一 (京都大学教授)
2012年10月07日

◎共存のルール見いだせ

人間はいつまで領土とか国境とかにこだわり続けるのだろうか。竹島や尖閣諸島の問題について述べているのではない。もう少し一般的な人間の集団間の関係について考えてみたいのだ。

人間とは自分の由来にこだわる動物だと私は思う。どの家族に、どの土地に生まれ、どの組織に属し、どの国の一員であるかが常に付きまとう。それは人と付き合う際に、自分を証明する手段として重要だ。どの社会でも、どこの誰だかわからない人と、すぐに心を許して付き合おうとはしないからだ。

しかし、自分の由来は必ずしも土地や国に結びついているわけではない。個人のアイデンティティーは自分を育ててくれた家族や共同体に結びついており、土地に限定される必要はない。自己を証明する手段をもって複数の集団や社会を渡り歩ける現在、自分の由来を特定の土地に結びつけて語る必要が果たしてあるのだろうか。ましてや、その土地を境界線で仕切って区別する必要があるのだろうか。

そもそも土地に境界線を引くのは、人間にとって新しい出来事である。人間に近縁なサルや類人猿は、集団で暮らすようになってからほとんどテリトリー(縄張り)をもたずに共存してきた。テリトリーは夜行性の原猿類が個体でもつ特徴である。フルーツや昆虫を主食とする体の小さな原猿類は、樹上で食物をめぐる競合を回避するために、分散して互いに空間的にすみ分ける道を選んだのだ。

だが、次第に体が大きくなって昼の世界に進出した真猿類は、それまで鳥が支配していた樹幹部でフルーツや葉を食べるようになる。より広い範囲で食物を探す必要が生じて地上へ降り、集団を作って肉食獣の危険から身を守るようになった。しかし、季節によって得られる植物性の食物は分布が変わるので行動域は広くなり、テリトリーとして防衛できなくなった。そのため、彼らの行動域はその全域あるいは一部が隣接群と重複し、特定の地域を占有して守る行動性向は発達しなかった。

テナガザルは例外的にテリトリーをもつが、オスとメス一対のペアで、直接戦わなくてもいいようにテリトリーソングを歌う。つまり、テリトリーとは本来、個体か家族規模の小集団が競合を避け、分散して共存するためのルールだと考えることができる。

霊長類の集団同士は互いに対立し合う関係にある。ときには激しくぶつかり合い、負傷して死ぬ個体もある。だが、彼らは集団のために戦うわけでも、自分たちの土地を守るために戦うわけでもない。食物や繁殖相手を獲得するために、なじみのある協力しやすい仲間と手を組むだけである。その証拠に、オスもメスも集団を移ってしまえば、もとの仲間や土地に固執せず、すぐに新しい仲間と協力関係を結ぶ。このテリトリーをもたず、出自にこだわらない性質は人類に受け継がれ、つい最近まで続けられたと思う。人類の進化史の99%以上は食料生産を伴わない狩猟採集生活であり、自然の食物を探しながら小集団で移動し、他の集団と土地を共有していたと考えられるからである。

人間がまず自分のアイデンティティーをもったのは土地ではなく、集団である。それは家族という子育ての組織が確立された頃だと思う。人間は生涯にわたって家族のきずなを保ち続ける。ゴリラもチンパンジーも親元から離れてしまえば親子の関係は断たれるが、人間は別々の集団で暮らしていても家族のきずなを維持し続ける。そして、複数の家族が助け合って生きていく中で、子どもたちは自らのアイデンティティーを地域共同体に刻印する。人間の体も心もテリトリーではなく、養育を通して家族のつながりへ深く結び付いているのである。

約1万年前に食料の生産が始まって土地に大きな価値が生まれ、定住生活が主流になった。土地の境界が集団の境界になったのである。土地を守る大きな組織が形成されるようになり、人間のアイデンティティーはさらに大きな集団へと移し替えられた。最たるものが国家だろう。国家は明確な国境をもって他の国家と区別される。しかし、それはもはや目に見える集団ではない。世界各地に、かつての植民地政策によって別々の国家に分断された民族がある。同じ言葉を話し、同じ衣装をまとい、同じ物を食べるのに、国境によって日常的な接触を断たれている。日本もその悲劇を作り出した責任が過去にも現在にもある。

今さまざまな手段で人々は越境し始めている。携帯電話やインターネットによる交信を止めることは難しいし、物の流れは加速するばかりだ。もはや国がある地域を独占支配する時代は終わったのではないだろうか。重要なのはその土地を実際にだれがどう使うかである。人間はテリトリーをもつようには進化していないことを思い出すべきだ。地球の土地を世界の人々が共有する新たなルールを作るべき時がきているように思う。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2012年10月07日掲載「領土・国境へのこだわり・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。