ゴリラに学ぶ民主主義

山極壽一 (京都大学教授)
2012年11月11日

◎世論を聞けるリーダー

ゴリラの社会にも民主主義がある、と言ったら驚かれるだろうか。

ゴリラは体重200キログラムを超える巨大なオスを中心に、数頭のメスと子どもで群れを作って暮らしている。オスの体重はメスの2倍近くあり、メスにはない白銀の毛が背中にあってよく目立つ。これはゴリラのオスが外敵を引き寄せ、メスや子どもたちを守るような特性が進化してきた結果である。だから、オスは常に堂々とした態度をとり、まさにリーダーの威厳を保っているように見える。

その典型がドラミングと呼ばれる行動だ。2足で立ちあがって両手で交互に胸をたたくのだが、注目を引くようにわざわざ大仰に振る舞う。他の群れと出合ったときや、興奮したとき、休息を終えてみんなで歩きだそうとするときなどによく見られる。メスや子どもたちはオスに従って採食の旅に出かける。

しかし、メスたちがオスの後について行かないことがある。よく見知った場所で、あまり危険がないことがわかっているようなときは、メスたちは思い思いの方向に歩きだす。そして互いにブウブウという低い声でうなる。その声が多い方にだんだんと集まり、やがてまとまって一斉に歩きだすのである。リーダーは不要でも独りで行動するのは怖い。そこで声を交わし合って希望の多い方向へ同調するのだ。これがゴリラのデモクラシーである。リーダーのオスが置いてきぼりを食うこともあるし、あわてて引き返してくることもある。こんなときのオスは何とも決まりが悪そうに見える。

たかがゴリラというなかれ。人間も大して変わらないことをやっている。平和なときはめいめいが勝手なことをやろうとし、でも独りでは不安だからなるべく多くの仲間がいる方へ同調する。しかし、さらに不安が増すと強いリーダーを求め、その力が導くままに歩もうとする。ゴリラと違うのは、集団の規模が圧倒的に大きいこと、それに声の上げ方がゴリラとは違うことである。人間の世界では、もはやどの方向に声が多いのか判別するのが難しくなっているからだ。

かつてベネディクト・アンダーソンは、国民国家を「想像の共同体」と呼んだ。新聞などマスコミによって情報が共有されるようになり、過去の大惨事や歴史的事件を共通の記憶としてもてるようになったことが国民国家の建設を可能にしたというのだ。しかし、今の日本の国民は果たして情報を共有できているだろうか。東日本大震災を国民共通の記憶として胸にとどめているだろうか。「新聞は本当のことを伝えない」「テレビは伝えてほしいことを報道しない」といった意見が飛び交っている。原子力の安全について、放射能汚染の影響について政府や専門家の間で大きく意見が割れている。納得するような答えが出ないままに、新しい政策が実行されていく。人々がこれまでよりどころにしてきたマスコミという公共の掲示板への信頼は崩れ、不安に駆られた人々はインターネット、ツイッター、フェイスブックなどさまざまなソースから情報を得ようとしている。

しかし、そうしたネットを流れて伝えられる人々の声の多くは無名のささやきである。声の所在もその大きさも数もはっきりしないことが多い。それを受け取る人々はどの声に従ったらいいか判断できないでいる。だから突如として声が大きくなって大群衆が行進を始めたり、突然理由もわからないままに沈静化したりするのだ。

議会制民主主義の機能も低下している。これまで国民の政治参加は選挙に投票して議員を選ぶことだった。選ばれた議員は人々の信頼と期待に応えるように全力を尽くすことになっていた。しかし今、その議員が自分たちの意見を代表してくれず、政治家同士の駆け引きばかりを優先させているように見える。経済は悪化し、国際情勢も緊迫し、人々は大きな不安に駆られて強いリーダーを待ち焦がれるようになっている。

問題はそのリーダーたちである。ゴリラのリーダーはメスや子どもたちに置いてきぼりにされれば、あわててその後を追う。いくら威張っていても、群れの仲間がついてきてくれなければリーダーとしての役割を発揮することができないからである。でも日本のリーダーたちは後ろを振り返らない。ゴリラのオスのようにドラミングをして虚勢を張るのはうまいが、みんなが違う方向へ歩き始めても頑として方針を変えない。みんなの声に耳を傾けているとはとても思えない。

長らく市民が前提としてきた熟議による民主主義はどこへ行ってしまったのか。この行き詰まりの状態を打開するには、確かな情報を共有する公共圏を再構築し、人々の信頼に足るリーダーシップを確立することが急務だろうと思う。私たちは今、ゴリラの民主主義すら力として行使できなくなっているのである。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2012年11月11日掲載「ゴリラに学ぶ民主主義・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。