科学を究める意味

山極壽一 (京都大学教授)
2013年03月31日

◎未知の扉、友と開く喜び

先日、兵庫県西宮市で「第2回科学の甲子園全国大会」が開催された。2011年度に創設された科学好きな若い世代を育てる企画で、各都道府県の選考を経て選抜された高校生たちが、科学に関する知識とその活用能力を競う。筆記競技や実験競技にチームで挑み、総合点によって日本一を目指す。今年は愛知県立岡崎高校のチームが優勝した。

その際、シンポジウムがあり、私もパネリストの一人として参加した。「一流の科学者に必要なモノとは何か」という恥ずかしくなるようなテーマだったが、それぞれ高校時代のころにもどって自分がたどった道を振り返った。面白いことに、パネリストの誰もが高校のときに描いていた道を歩んではいなかったし、研究者という職業に就くことを夢見ていたわけではなかった。

現代は、多くの高校生が大学へ進学する時代である。大学院に進み、博士号を取って研究者の道を歩む若者も多い。しかし、高校生たちがもし、研究者という職業に憧れて科学をやろうと言うなら、それは間違いだと私は思う。科学は職を得るために志すものではないからだ。新しい発見をしたい、未知の世界を見たい、常識を変えたいという気持ちが科学への興味を高めるのであって、科学が職業を約束するわけではない。

成績の優秀な者が一流の科学者になるとは限らない。誰も気がつかなかった現象に目をとめ、答えのまだない質問を立て、愚直にそれを追い求めた末に発見という栄誉に恵まれることになる。失敗を繰り返し、なかなか結果が出ずに落ち込み、自分の能力を疑うこともしばしばある。分野の違う人々の意見を取り入れながら長い試行錯誤を経て、結局何も新しいことを見つけられなかったということもある。

でも、思いがけない発見や出会いをして、「そうだったのか」と未知の扉が開く瞬間に立ち会うことがある。その経験が科学者として至福の報酬である。それがこれまでの常識を塗り替えるような考えにつながればなおさらのことだ。

ひょっとすると、大学入試をゴールとする小、中、高校を通じた受験勉強が、成績重視の競争意識を駆り立てているのかもしれない。出された問題の正解にいかに早くたどりつくかが成績を左右し、その競争に勝つことがいい進路と将来につながるという考えが蔓延(まんえん)している。いい成績は優秀な研究者の道を開き、個人に栄誉をもたらすとの錯覚を生み出してはいないだろうか。

大学に入ってくると、これまで経験してきた学問と違うことに大きな戸惑いを覚える。大学では答えの分かっている問題よりも、まだ答えのない課題があることを教える。複数の答えがある問題もあるし、そもそも答えが求められていないこともある。必要なのは常識にとらわれずに自分の考えをまとめ、それを確固とした根拠をもって説明することだ。

知識を広く正しく習得することだけが求められるのではない。ときには既存の学問世界に挑戦して自分で問いを立て、その答えを出すことが要求される。高校で学習した学問との違いに驚き、自分でどういう学習をしていいかわからずに悩む学生も多い。しかも昨今は、大学に入って友達ができずに悩んでいる学生が少なからずいると聞く。でもそれはおかしい。科学という学問は友達を作り、自分の思考を磨くものであるはずだ。

科学の知識を生かすというのは、自分を高めて他者との競争に勝ち、多くの報酬を得ることではない。ときには異なる知識や違った能力をもつ人々がチームを組み、役割を分担して目標達成に挑む。その際は、自分が抜き出ることより、それぞれの能力を生かして助け合うことが必要になる。大学を出て企業に入ればチームの中で働くことが求められるし、実験室で研究をするときもチームでプロジェクトを組むことが多い。一流の国際誌に載る論文は、数十人の共著者が名を連ねることもまれではない。個人の競争ではなく、チームワークが良い結果につながるのである。

日本の若者は国際競争力を高める必要があると言われている。その意味で科学の甲子園はいい試みであると思う。チームで科学力を競う大会だからである。チームの中で互いの能力や持ち分を生かし、知恵を寄せ合ってひとつの問題に取り組む。その競争力こそが日本の科学と技術の将来に必要なのだ。

科学は文化や宗教の壁を越えて常識を作る。それはこれまで科学の道を志した人々の無数の問いによって更新されてきた。その世界は功名心ではなく、新しい発見と事実に基づいて未知の扉を開けたいという謙虚な心によって支えられてきた。科学は世界の見方を共有して友を作り、平和をもたらす大きな力となる。ぜひ、その真の魅力を現代の若者に知ってほしいと思う。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2013年03月31日掲載「科学を究める意味・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。