作り手による「物語」

山極壽一 (京都大学教授)
2013年05月05日

◎多様な視点から解釈を

芥川龍之介の作品に「桃太郎」という短編がある。桃太郎がサル、イヌ、キジを連れて鬼ケ島に征伐に行く有名な昔話を鬼の側から描いた話だ。豊かで平和な暮らしを突然たたきつぶされた鬼たちがおそるおそる、何か自分たちが人間に悪さをしたのかと尋ねる。すると桃太郎は、日本一の桃太郎が家来を召し抱えたため、何より鬼を征伐したいがために来たのだと答える。鬼たちは自分たちが征伐される理由がさっぱりわからないままに皆殺しにされてしまうのである。

笑い話ではない。つい最近まで、いや現在でもこれと同じことが起きていないだろうか。私が子どもの頃、アメリカのインディアンは白人と見れば理由もなく襲ってくるどう猛な民族で、力を合わせて撃退し滅ぼすことが美談とされていた。アフリカのマウマウ団と言えば、呪術を用いて人々を暗殺する危険な集団で、平和な暮らしを守るために撃退しなければならない悪の根源と見なされていた。

しかし、物心ついて世界の歴史を読みあさるようになると、これらの考えが土地を侵略した側が作った身勝手な物語であるとわかってきた。住んでいた土地を奪われ、不公平な取引をさせられ、伝統と文化を捨てることを強いられた人々が抵抗している姿を、悪魔の仕業のように語っていたのである。私は物語を作った側にいただけなのだ。インディアンやマウマウ団を生み出した人々の側にいれば、自分たちの文化や暮らしを踏みにじった人々は鬼ケ島にやってきた桃太郎のように映ったに違いない。

こういった理不尽な物語は民族と民族の間だけにあるのではない。人と動物の間にもある。私が研究しているゴリラは、19世紀にアフリカの奥地で欧米人に発見されて以来、好戦的で凶悪な動物と見なされてきた。それは初期の探検家たちが作り上げた物語がもとである。その話に合わせてゴリラはキングコングのモデルとなり、人間を襲い、若い女性をさらう邪悪な類人猿として人々の心に定着した。そのため、ライオンやゾウと同じような猛獣と見なされ、盛んに狩猟された。

発見以来100年以上たってから、野生のゴリラの調査が始まり、彼らが平和な暮らしを営む温和な性質をもつことが明らかになった。現地のアフリカの人々もゴリラを特別視などしていなかった。こういった物語はアフリカを暗黒大陸、ジャングルを悪の巣窟と見なしたがった欧米人の幻想だったのである。それは欧米各国がアフリカに植民する格好の理由になった。暗黒の世界に支配されている不幸な人々に光を当てるためというわけである。

今もこうした誤解に満ちた物語が繰り返し作られている。9・11の後、アメリカはイラクが大量破壊兵器を持ち世界の平和を脅かすと決めつけて戦争を始めた。アルカイダはアメリカ人をアラブの永遠の敵と見なして自爆テロを武器に戦うことを呼びかけている。イスラエルとパレスチナも互いに相手を悪として話を作り、和解の席に着こうとしない。どちらの側にいる人間もその話を真に受け、反対側に行って自分たちを眺めてみることをしない。

人間は話を作らずにはいられない性質を持っている。言葉を持っているからだ。私たちは世界を直接見ているわけではなく、言葉によって作られた物語の中で自然や人間を見ているのだ。言葉を持たないゴリラには善も悪もない。自分たちに危害を加える者には猛然と戦いを挑むが、平和に接する者は温かく迎え入れる心を持っている。過去に敵対した記憶は残るが、それを盾にいつまでも拒絶し続けることはない。人間が過去の怨恨(えんこん)を忘れずに敵を認知し続け、それを世代間で継承し、果てしない戦いの心を抱くのは、それが言葉による物語として語り継がれるからだ。

言葉の壁、文化の境界を越えて行き来してみると、どこでも人間は理解可能で温かい心を持っていることに気づかされる。個人は皆優しく、思いやりに満ちているのに、なぜ民族や国の間で理解不能な敵対関係が生じるのか。グローバル化した現代、私たちはさまざまな地域や文化の情報を手に入れることができるようになった。物語を作り手の側から読むのではなく、ぜひ多様な側面や視点に立って解釈してほしい。新しい世界観を立ち上げる方法が見つかるはずである。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2013年05月05日掲載「作り手による「物語」・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。