贈る気持ちと返す気持ち

山極壽一 (京都大学教授 / PWSプログラム分担者)
2014年02月09日

◎人間に独特の互酬性

年末年始には、お歳暮や年賀状を送るため友人の名前や顔を思い出した人が多いと思う。毎年もういいかと思って出さないでいると賀状が来る。逆に当然と思う人からは来ないことがあって行き違いを感じる。やはり、贈り物や便りは双方向であるべきだという気持ちがあるので、つい多くの人へ発信することになる。

相手に何かしてもらえば、お返しをしなければという思いや、何かすれば、お返しがあるはずという思いは人間に独特なものだ。この世界のどこへ行っても、人間はこの互酬性にもとづいて社会を作っている。隣近所の付き合いには助け合いの精神が反映しているし、選挙の投票でも、私たちのために働いてくれると思う候補者に票を入れる。だから、当選した議員が私たちの期待に反した行動をとると、裏切られたという思いを抱くのだ。また、奉仕や援助のように、一見お返しを期待しない行動であっても、それがいつかは自分や自分の親族にとって有益になるという気持ちがないとは言えない。社会における自分や家族の立場は、自分の行為に対する周囲の評判に左右されるからだ。

では、この互酬性はどんな行動から進化したのだろうか。個々の動物が日々の生活で所有するものは食べ物である。でも人間と違って、動物たちはめったに食べ物を仲間に与えることはないし、もらったからといってお返しをしたりしない。食べ物の数には限りがある。わずかな量しかないとき、複数の個体が手を出せばけんかが起こる。だから、動物たちは一頭ずつなわばりを作り、隣のなわばりには侵入しないようにしてけんかが起こるのを防ぐ。群れで暮らしている動物は、けんかが起きないように食べ物を取る優先権をあらかじめ決めている。

たとえば、ニホンザルは互いの優劣を認め合って暮らしていて、食べ物は必ず優位なサルがとる。劣位なサルは手を引っ込め、食べ物に関心がないような態度をとる。あらかじめ勝ち負けを決めて付き合えば、けんかは起こらないというわけだ。とったサルが食べ物を分けることはないし、とれなかったサルがうらむこともない。こうしたサルの行動から考えると、食べ物を交換するには、自分も相手も同等であるという気持ちや、相手に与えたいという気持ちが必要なことに気づく。動物たちにはそれが欠けているのだ。では、その二つの心はどのようにして芽生えたのだろう。

動物が食べ物を仲間に与えたり、分配したりするのは大きく二つの場合に分かれる。ひとつは求愛のディスプレーとしてオスがメスに与える場合で、昆虫や鳥によく見られるが哺乳類ではめったにない。もうひとつは、養育者が子どもに与える場合であるが、哺乳類の場合には離乳後に見られることがある。とくに、母親以外の個体が子育てに加わる動物では、養育者が子どもに食べ物を与える。

最近、サルの仲間では、ある分類群だけに食べ物を分配する行動が多発することがわかってきた。個体がなわばりをつくる夜行性のサルや、ニホンザルのような優劣のルールが徹底しているサルでは見られない。オスがよく子育てに参加する新世界ザルや、自己認知能力がある類人猿によく見られるのである。しかも、離乳後に母親や養育者から子どもに固形食物が与えられる種にのみ、おとなどうしの間にも食べ物が行き来するというのだ。これらの観察事実に基づくと、人間に見られる食べ物の分配も子育てに端を発し、それから自己と他者を平等に見ようとする能力の発達にともなっておとなの間に広がったのではないかと考えられる。

人間は、遺伝的に近縁なゴリラやチンパンジーに比べると、成長の遅い子どもをたくさん産むという性質を持つ。どの社会でも子どもは長い間、食べ物を与えてもらって成長する。それを可能にするため共同の子育てが必要になり、食べ物の分配や仕事の分担、そして平等の意識が生まれ、互酬性に基づく社会が作られたのではないだろうか。

年賀状を出す相手は、商売柄たくさん出す人もいるだろうが、だいたい100から200の間だろう。つまり、その数が互酬性に基づいて自分がよりよき関係を保ちたいという社会の規模なのだ。それは、子どもたちを一緒に育てるのに適し、長い間忘れることのない友人の数なのである。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2014年02月09日掲載「贈る気持ちと返す気持ち・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。