第26代京都大学学長の候補に推挙された。10月からその任務に就くことになる。京都大学は自学自習をモットーにし、自由の学風と創造の精神を育む学問の都である。そこで何ができるか、私の抱負の一端を語らせていただきたい。
まず、大学の主役は学生であるべきだ。将来の日本、いや世界を背負って立つ学生がいるからこそ、教員は日々の目的を全うできる。学生だけでなく、ポスドク、それに職に就いたばかりの若い研究者群を分担して育て、それぞれが活躍できる世界へと送りだすのが大学の使命である。
そのためには、大学は閉じた世界であってはならない。大学は社会へ、そして世界へ通じる窓である。その窓を開け、学生の背中をそっと押して舞台へ上げるのが教員の役目だ。教員たちはそれぞれの分野の最先端で何が行われているかを知っているし、それを担っている人も多い。あるいはこれから世界に登場しようとしている人もいる。それらの教員の活動ぶりや考え方に直接触れて学び、彼らが用意した窓を通じて新しい世界を眺めることができるのが大学の大きな魅力である。
小中高の教育と大学教育の違いはここにある。高校までは既存の正しい知識をいかに習得するかが課題となる。そのために、教科書は厳密に検定を受け、記載内容に不備がないかどうかを審査される。しかし、大学教育では教員自らが教科書を用意したり、参考書だけで講義をしたりすることも多い。検定制度はない。それは、個々の教員が自分の専門分野について自分の考えを述べることが許されているからであり、それぞれの専門について深い知識を持つという自負と誇りに裏付けられているからだ。
大学で学生たちは本物の学問に出合う。それはいまだ解のない世界であり、先人たちが未知の解を求めて苦闘した歴史である。そこで学生たちは学問の面白さや可能性、世界にある問題を知り、自分の能力が何に向いているかを理解していく。それに気がつくのは自分であるが、その助けとなるのは仲間であり教員である。そのためにこそ、大学は世間の常識にとらわれない自由な発想が許される場でなければならないのだ。
昨今の大学は、競争的な環境づくりが奨励され、学生たちがその条件に合わせて個人の能力を高めようとしている気がする。しかし、大学とは多様な能力が開花する場であり、一律的な評価基準を学生に向けてはならないと私は思う。個人の能力を高めることは奨励すべきだが、それだけでは解決できない課題が多い。ノーベル賞を受賞した山中伸弥さんが常に「チームワークの勝利」と語るのは、多くの表に出ない人々の助けがあってiPS細胞(人工多能性幹細胞)の発見に行き着いたことをよく知っているからだ。それは同じ目標へ向かって、それぞれ違う能力を結集した成果である。
たくさんの知識や技術を習得したから高い能力が育つわけではない。自分で課題を見つけ、その解決へ向けて活躍できる自分を見つけたとき、その能力は飛躍的に伸びる。その時、それまで蓄積してきた思わぬ知識が役に立つかもしれないし、仲間の常識外れの発想がブレークスルーにつながるかもしれない。
学問に国境はない。これが将来日本を、世界を救うかもしれない。今、さまざまな学問分野で国際的なネットワークが構築され、世界が抱えている問題についてシンポジウムやワークショップが開かれている。地球規模の環境問題や、各地で起きている民族衝突、医療技術、食料生産などがそのいい例である。多くの企業はすでに国境を越えてさまざまな事業を展開している。日本の国益だけを考えていては新しい道は開かれない。学生のうちからこういった問題に接し、国際会議でどのような議論が戦わされているか、できるだけ現場で学べるようにしたいと思う。
現代の学生にとって、大学は単に知識を学ぶ場所ではない。インターネットを開けば、膨大な知識にすぐに接することができるからだ。大学とは、教員個人の考え方を通じて、世界の解釈の方法や、知識や技術を実践に移す方法を学ぶ場所である。そのために、教員は学生にとってもっと魅力的な存在になる必要がある、と私は思う。