アートとサイエンス

山極壽一 (京都大学総長 / PWSプログラム分担者)
2015年06月14日

◎息づいている共通の心

4月に、「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」というイベントを開催した。大蔵流狂言師の茂山千三郎さん、メディアアートの土佐尚子さん、そしてゴリラを研究してきた私が、「垣根を越えてみまひょか?」というお題で鼎談(ていだん)をした。とても面白かったので、その様子を書き残しておこうと思う。

私にとって「垣根を越える」とは、野生のゴリラの行動をつぶさに記録するために、ゴリラの群れの中に入ってゴリラのように行動することである。最初はゴリラに嫌がられて、逃げられたり、攻撃されたりするが、やがて関心をもたれなくなる。それが言わば、ゴリラになったと認められた状態で、垣根を越えたことになる。そうすると、人間が変わった生き物に思えてきて、人間にはない発想が頭に浮かぶ。たとえば、緑の新葉がおいしそうに見えたり、枝ぶりのいい木を見ると樹上にベッドを作ってみたくなったりする。それはアートの発想につながるのではないか。そもそもの起源をたどると、何かに憑依(ひょうい)して、その心になって世界を見つめなおすところから、アートは始まったのではないかと思うのだ。

千三郎さんは、猿楽ならぬゴリラ楽という創作狂言を作った。ゴリラは腕が脚より長いから、腕をまっすぐ地面に立てれば、上半身が起きて威風堂々とした姿勢になる。でも、人間は腕が短いので、この姿勢をとろうとしたら中腰で背を思い切り反らせねばならない。これは結構きつい。しかし、千三郎さんはゴリラの姿勢は狂言の基本的な構えに近いと言う。すると、狂言をすることですでにゴリラの垣根を越えていると思うのだが、狂言の垣根は別に存在する。それは「離見の見」、すなわち離れたところから自分をもう一度見るということだそうだ。客席に立った目で自分をもう一度見ることによって、冷静な表現を磨くことなのである。なるほど、その目がなければアートは成立しない。

土佐さんは琳派400年の催しでプロジェクトマッピングを制作し、絵の具に高速の振動を与えて撮影する現代技術を使って、風神雷神伝説を京都国立博物館の壁面に光の芸術としてよみがえらせた。これは昔の呪術のようなもので、ふだんわれわれが持っている合理性を解き放って生命力を発散し共有する場を作ることだと言う。土佐さんにとっての垣根は合理性と非合理性の境界で、それを越えることが先端技術と芸術の融合によって文化を継承することに結晶する。琳派のように、伝統が守られているのは新しい時代の技術で変えていくからだ、というのが土佐さんの意見だ。それには千三郎さんも同意した。

そこに、オリジナリティーというアートにとって大事な精神が潜んでいる。アートは複製を嫌う。誰もが他人の発想や考えに学ぶが、それをただまねることはご法度だ。何か独自なものを加えて新しくしなければ、自分の作品とは言えない。それはサイエンスの世界でも同じである。今までに知られていない物やオリジナルな考えであるからこそ発見として認められるのだ。ただ、サイエンスは何度も繰り返してみて、それが誰にとっても真実であることを追試する必要がある。新しい常識となるエビデンスを最初に提示することが、発見の必要条件になるのである。

アートとサイエンスには、他者とは違う発想によって自分の世界観や解釈を表現したいという共通の心が息づいている。どちらも見えている世界をデフォルメしたり、見えないものを形にしたりすることによって表現される。また、アートもサイエンスもその作品や発想が製品化されるときには、大量に複製が生産される。違うのは、サイエンスがすべての人に同じ解釈を要請するのに対し、アートは多様な解釈を許容するということだ。それは人間が他者と交わす、二つの異なるコミュニケーションを反映している。

現代のイノベーションは、この二つのコミュニケーションを組み合わせることによって創出できると私は思う。技術を偏重する傾向の強い昨今、アートの心で垣根を越え、新しい常識を生み出すサイエンスが求められている。現代の大学にはアートの発想がもっと必要なのではないだろうか。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2015年06月14日掲載「アートとサイエンス・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。
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第1回京大おもろトーク「アートな京大を目指して」 第1部, 第2部, 第3部, 第4部