複数の家族を含むコミュニティーは、サルや類人猿には見られない人間だけの特徴だ。家族とコミュニティーはそもそも維持される原理が違う。家族は見返りを求めない援助と協力によって、コミュニティーは集まることで利益が得られるような互酬性や規則によって、それぞれ成り立っている。しばしばこの二つの原理は拮抗(きっこう)する。地域社会の厄介者が、家族では最良の父親という場合があるのだ。その矛盾に耐えられないから、サルや類人猿はどちらかの原理により強く依存して群れを作る。
ではなぜ、人間だけが家族を温存したコミュニティーを作ったのか。その背景には文化的な理由より、生物学的な要因が大きく関与していたと私は考えている。
最近、オランウータン、ゴリラ、チンパンジーなど類人猿の野生における成長や繁殖の特徴が明らかになって、人間の生活史の不思議な側面が浮かび上がってきた。人間は多産であるにもかかわらず、子どもの成長が遅いのだ。
類人猿の赤ん坊は3~7年もお乳を吸って育つので、その間は母親が妊娠できない。だから出産間隔が長く、生涯に数頭しか子どもを産めないし、おとなになる子どもは2頭前後である。ところが、人間の赤ん坊は2年以内に離乳し、母親は年子を産むことも可能だ。生涯に10人以上の子どもを育てることができる。この特徴は遠い昔、人間の祖先が類人猿のすむ熱帯雨林から離れて、大型の捕食動物が多い草原へ進出した時代に獲得したと考えられる。逃げ込む樹木のない草原は危険だし、無防備な幼児がよく犠牲になる。森林性と草原性のサルを比べると、草原性の方が多産だし、子どもの成長も速い。人間の祖先も、捕食によって高まる子どもの死亡率を補うために多産になったと考えられる。
しかし、人間は多産なのに、子どもの成長は類人猿よりずっと遅い。それは脳を大きくしたためである。人間の進化史で、最も早く表れる人間らしい特徴は直立二足歩行だ。これは長い距離をゆっくり歩くのに適した様式で、自由になった手で物を運べる利点がある。おそらく、広い範囲で食物を探し、それを安全な場所に運んで食べたのだ。もちろん、肉食獣に狙われやすい子どもたちに運んだ。
その数百万年後、脳が大きくなり始めた。ところが二足歩行によって骨盤が変形し、産道の大きさが制限されて大きな頭の赤ん坊が産めない。そこで、人間は類人猿とあまり変わらない頭の赤ん坊を産み、類人猿の2倍以上の時間をかけて子どもの脳を大きくすることにしたのである。
ゴリラやチンパンジーの子どもの脳は4歳ほどでおとなの大きさに達する。しかし、人間の子どもの脳は12~16歳まで成長を続けて、ゴリラの脳の3倍になる。脳はコストの高い器官で、成人でも体重の2%しかないのに摂取エネルギーの20%を費やしている。成長期の子どもの脳は45~80%の摂取エネルギーを必要とする。そこで人間は、身体の成長を後回しにして、脳の発達を優先するように成長期を延ばした。おかげで、頭でっかちで手のかかる子どもをたくさん持つことになったのだ。
これが、家族とコミュニティーの必要になった原因である。母親の手だけでは子どもを育てられないから、共同の育児が必要になる。複数の家族が集まり、子育てを優先課題にしてさまざまな協力体制を整えた。類人猿の赤ちゃんはとても静かだ。ずっと母親にしがみついているから、泣いて自己主張する必要がない。人間の赤ちゃんは、けたたましい声で泣く。これは、生まれ落ちてすぐに母親以外の手に渡されて育てられるからである。
赤ちゃんを泣きやまそうとして、多くの人々が共同で働きかけ、食物を持ち寄っていっしょに食べ、子守歌が生まれ、音楽で人々の気持ちをひとつにするコミュニケーションが発達した。共食と音楽は、言葉が登場する以前から人間に備わった、類人猿にはほとんど見られない特徴である。これらのコミュニケーションによって発達したのが他者を思いやる心の働きだ。それを人間は言葉によって高めた。自分が体験していないことを言葉によって他者と分かち合い、多くの人と交流できるようになった。
しかし今、その共感を人間はだんだん失おうとしている。コミュニケーションの方法が変化したからだ。インターネットや携帯電話で、近くにいる人より見えない場所にいる人を優先する社会が出現した。この方法では、家族とコミュニティーの異なる原理を併用することができない。自己を重んじ、自分を中心に他者とつき合う傾向が肥大しつつある。逆説的だが、それは人間としての自分を失うことに通じる。家族崩壊の危機と言われて久しい。こう見てくると、家族の崩壊は、自己のアイデンティティーの危機なのである。