数年前から、日本では15歳以下の子供の数より飼われている犬猫の数が上回ったと言われている。犬猫以外にもモルモットや小鳥、亀、金魚など多種にわたるペットがいる。日本は世界でも有数なペット大国となった。一方で、日本はロボット大国としても知られている。人間の代わりに重い荷物を運ぶ産業用ロボット、深海や地雷原など危険な場所で働く探索用ロボット、診療や手術を補助する医療用ロボットなど、さまざまな用途で開発され、すでに実用化されているものもある。最近ひときわ注目を浴びているのがヒューマノイド(人間型)ロボットだ。
パナソニックのエボルタ電池を搭載した手のひらサイズのミニロボットは、米国のグランドキャニオンの登頂に成功した。乾電池の性能を証明する試みだったが、見ている私たちはロボットがロープを登るたびに、頑張れと声援を送りたくなった。このロボットを製作した高橋智隆氏によると、これからはロボットに仕事をしてもらうのではなく、ペットのように付き合えるヒューマノイドの時代だという。
ロボットは20世紀初めに化学的合成人間として登場し、その後主体性を人間に委ねる機械として定義されるようになった。アイザック・アシモフのロボット三原則(人間への安全性、命令への服従、自己防衛)は有名である。それが時代を経て、人間に愛護される対象として生まれ変わろうとしているのだ。
私はペット動物とロボットは対極的な存在だと思う。動物は人間とは姿形が違うし、コミュニケーションの方法や、求めていること、理解の仕方も異なる。それでも私たちは動物に話しかければ、彼らなりの方法でそれに応えてくれるはずだと思い込んでいる。単に私たちが彼らの反応を勝手に解釈しているだけかもしれないが、それを証明するのは難しい。それに、そんなことを確かめなくたって支障はない。ペットと人間が共存できていれば、私たちは満足感を覚える。
ロボットは正反対だ。人間が作ったから、人間の計算通りに動いてくれなければ困る。仕事を効率良く、安全に進めるために、不満を言うことなく、同じことを何度でも繰り返してくれる。融通が利かないが、人間の望む通りに改善し動かすことができる。だから、その前で人間は不安を抱かない。何トンもあるトラックが目の前に迫ってきても不安を感じないのに、ゾウが目の前に迫れば恐怖にかられる。それはゾウの心が読めず、人になれていても何をするか完全には予測できないからだ。ヒューマノイドはいくら外見が人間に似ていても、機械である限りそのような不安を覚えずにすむ。ロボットは動物のような命や魂をもっていないからである。
その常識がどうやら変わり始めた。今、動物の姿をしたロボットたちが人間の世界で活躍し始めている。イヌのAIBOやアザラシのパロは安全で手間のかからないペットとして人々の心を癒やしている。ヒューマノイドがそういった特徴をもって人間の世界に入ってくるかもしれない。現代の技術では、人間の語りにロボットが反応するだけでなく、人間に語りかけてくれることも可能だそうだ。人間のしたいことを先回りして提案してくれるものもできつつある。ネット上のマーケットのように、その人の過去の注文に基づいて次に求めるものを提案してくれるのである。
ペット動物とロボットとの溝は急速に埋まりつつある。ひょっとしたら、子供の代わりにロボットをもつ人が増えるかもしれない。ロボットはいつまでも子供でいてくれるし、不満を言わずに介護までしてくれるからだ。しかし、私はロボットと動物の違いは重要だと思う。生物は自分が生きるために自己主張をし、成長し、やがて死んでいく。私たちに制御できない自然の営みだ。それに寄り添い、共感することで自分も生物であることを実感する。動物を完全には操作できないから、その主張を認め、相手を信頼しようとする。その心の動きは相手が人間であっても同じことだ。ヒューマノイドの登場は人間が今、自己主張せずに気遣ってくれるパートナーを求めていることを示唆している。ただそれは、ロボットを人間にするのではなく、人間のロボット化、機械化を意味していないだろうか。