人間を作るのは

山極壽一 (京都大学教授)
2013年08月18日

◎自然と歴史、旅を重ねて

先日、英国のマンチェスター大学で開かれた国際人類学・民族学会連合大会に招かれた。20世紀前半の最大の思想家と呼ばれるオルテガ・イ・ガセットの格言「人に自然はない、あるのは歴史だけだ」をめぐってディベートをしようというのである。私以外に英米の大学から3人の学者が参加し、2人ずつ賛否の意見を述べ合った。

オルテガの主張は、人間とは過去の集積、つまり歴史の上に存在しており、自然の営みとは独立に動いているということである。この意見を支持するアバディーン大学の人類学者ティム・インゴルドは、人間の顔の中央についている鼻の多様性を挙げ、自然選択によって進化した共通の特徴とは理解できないと断じた。それぞれの人間に見られる特異性は成長の過程で作られ、遺伝子が定める固定的なものではないというわけだ。人間は類人猿との共通祖先から分かれて進化をとげる過程で、生物学的な軸から歴史的な軸へと乗り換え、文化によって自然性を駆逐してしまったというのである。だから人間に関して普遍的なモデルはもう存在しない。

これに対して私は二つの点から疑義を唱えた。人間は自然によってまだ支配されているということと、歴史に左右されるのは人間だけではないということだ。第二次世界大戦後に産声をあげた日本の霊長類学は、人間と動物の社会に連続性があることを証明しようとし、人間独自のものとみなされていた文化や家族の起源を霊長類の社会に求めた。最初の注目すべき発見のなかにニホンザルが近親間で交尾をしないという現象がある。人間社会ではインセスト・タブーとして普遍的に制度化されており、かつて人類学者のレビストロースはこれを自然から文化へ移行する制度と呼んだ。生物学的な理由だけでなく、この制度があることによって人間関係や社会構造に必然的な変化が起こるからである。しかしレビストロースは動物にも似たような現象があることを知らなかった。

ニホンザルが近親間で交尾を回避する行動は宮崎県の幸島や京都市の嵐山で観察され、やがて4親等以内の近縁な個体間で交尾がめったに起こらないことが確認された。しかもこれは生物学的な血縁関係と必ずしも一致せず、生後に世話を通じて親密な関係が築かれることによって生じる。近親でなくても子ども時代に親密になれば、思春期に交尾を避ける間柄になるのである。この傾向は人間にも認められており、近親間の性交渉は制度のみによって避けられているわけではない。ゴリラではこの回避が父親と娘の間に起こることから、私はこの現象が娘を父親から遠ざけ、他の集団へ移らせるきっかけになっていると考えた。人間が家族を作る上で重要な外婚とインセスト・タブーが、制度化せずに自然の要請のもとに成立しうることを指摘した。つまり人間を含む霊長類は、生後の経験によって社会関係が作られるように進化したのである。

過去の経験の上に現在の行動が作られるのは機械も同じである。昨今のコンピューターは過去の情報に基づいて顧客の嗜好(しこう)を計算し、将来への提案をしてくれる。でも人間が動物とも機械とも異なるのは、想像力によって自分と世界を作ることである。それは世界と同化し、自分に世界を取り込む能力であり、もとをただせば動物にもある共感能力に由来する。それを高度に発達させたからこそ、人間は逆に自ら作り出した環境や組織や倫理によって自らを作るようになったのである。だから私は、「いまだ人間は自然と歴史の間を旅している」と提案した。

マンチェスター大学の伝統によれば、ディベートは最後に聴衆の賛否を問うことになっている。挙手による結果は約2対1でオルテガの言葉を支持した側が優勢だった。だが、いまだ人間の進化に懐疑的な社会人類学者の多い学会で、3分の1も賛意が得られたのは大きな成果だったと思う。大会の共通テーマは「人間性の進化と台頭する世界」だった。ディベートの立場の違いは、人間性を歴史以前と以後に置く違いだったと思う。今、世界の政治や経済が大きく変動する中で、多くの民族や文化が消滅しようとしている。改めて人間とは何か、歴史とは何かを問い直す必要性を痛感させてくれた大会だった。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2013年08月18日掲載「人間を作るのは・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。