人間の危機管理とは何か

山極壽一 (京都大学教授 / PWSプログラム分担者)
2013年12月01日

◎他人思う心持ってこそ

東日本大震災以来、危機管理のあり方が盛んに議論されている。福島原発の汚染水漏れが発覚したり、情報隠しが疑われたり、いったい誰がどのように危機に対処し、責任をもつのかが依然としてはっきりしない。さらには牛肉などの食品の質や製法をめぐって、有名ホテルの意図的な表示の張り替えが報道され、人々は日々の生活に不安を募らせている。なぜ、このような間違いばかりが起こるのだろうか。

それは、人々が自分のことばかりに関心を向け、他人の安全や安心に気配りしなくなったからではないだろうか。日本ではつい最近まで、他人への気配りが自分の安全や幸福を確保することだった。危機管理でも同じことが言える。今、自分の身に降りかからなくても、いつか同じような危機がやってくる。そのとき一人で危機に立ち向かう事態にならないように、他人の危機をいっしょに協力して乗りきることが将来の安全を図る方法だったのだ。

とくにそれは、自分の子孫たちの安全を保障するための最善策だった。自分が他人の危機を救ったことが代々伝えられ、その記憶がいつか自分の子孫を救うことになるかもしれない。もはや自分はこの世にいないかもしれないが、自分の子どもたちの安全のために力になりたい。そう願う心が世代を超えて人々をつなぎ合わせてきた。

なぜそういった他人への配慮が失われたのか。世の中が自分中心に動いていて他人をおもんぱかることが不効率で不確実に見えるからである。それはサルの世界に似ている。ニホンザルの群れは、個体の利益を最大化するようにできている。野生の食物を効率よく探し、肉食動物から身を守るためには仲間といっしょにいた方がいい。でも群れが大きすぎると限りある食物をめぐって仲間と競合する。だから野生のサルの群れは、仲間といることが自分の安全と利益につながるような大きさに収まっている。サルは自分の利益を減らしてまで仲間を助けようとはしないし、子孫の時代を気にかけたりもしない。

サルと違って人間は、複雑な分業制のもとに食物を供給し、さまざまな構築物と組織で安全を保障するようになった。そこではもはや自分や親しい仲間だけで安全を確保することはできない。食物は自分の知らない場所から多くの人の手を経てやってくるし、高層建築や鉄道など自然の力を超えた文明の利器は、どこまで安全か一般の人々にはわからない。こういった人為的なシステムとしての環境に身を任せるには、そのシステムを維持する組織を信頼するしかない。でもその組織にいる人々を私たちは直接知っているわけではないのだ。そこに、信頼関係が破綻し、自分の利益を優先して安全性を軽視する危険が生じる。

東日本大震災に伴う福島原発事故は、組織に頼っていた安全神話の崩壊をもたらした。過剰な生産力と高速輸送に特徴づけられる現代社会は、過大なエネルギーを供給する装置を必要とする。その新しい環境を支えるシステムの安全は最先端科学の粋によって幾重にも守られているはずだった。しかし、その装置の安全が脅かされたとき、少数の人間の判断によって大きな危機が降りかかることを私たちは思い知らされたのである。それは人々の安全よりも自社の利益、自分の利益を優先する考えがもたらした危機ではないだろうか。言うならば、巨大な科学技術をサルの心で操ったことによる危機だったのだ。

経済学者のアマルティア・センは、現代の課題を「人間の安全保障」に置いた。かつて安全保障は国家のものだった。しかし、国家は国の利益を優先するために、人間の安全を犠牲にすることがある。紛争や災害に悩まされる個々の人の権利を守るためには、国家ではなく人間を中心に考えることが必要だと言うのだ。

今の日本に必要なのは、人間の安全を保障するのは機械でも技術でもなく人間の心だという事実に立ち返ることである。いくら予算をつぎ込んでも、法や規則を整備しても、自分以外の人々に気を配る心がなければ、安全は保障されない。人間にも誤りはある。しかし、それを自覚しつつ他人の立場に立って危険を予測すれば、機械の暴走を止めることができる。危機管理の近道は私たちの心の中にあるのだと思う。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2013年12月01日掲載「人間の危機管理とは何か・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。