先日、アフリカの熱帯雨林に野生復帰したゴリラを訪ねた。小さい頃に親を失い、孤児院に保護されたり、そこで生まれたりしたゴリラだ。野生のゴリラの数が激減し、絶滅の危機に瀕(ひん)しているので、人間のもとで育てられたゴリラを野生に戻し、数を増やそうという試みである。ゴリラを放すことによって、そこの生態系に新たに大きな影響を与えてはいけない。そこで、以前ゴリラが生息していたことがわかっていて現在絶滅している場所が選ばれた。川で囲まれた孤島のような森である。ゴリラは泳げないから、川を渡って他の場所に移動することはない。
ボートで1時間かけて会いに行ったのだが、ゴリラとの出会いはとても印象深いものだった。2カ月前に放された十数頭の群れは、まだ野生の食物をほとんど口にすることができず、餌を運んでくる人間をひたすら待っていた。水辺に設けられた鉄柵のこちら側から果物を投げてやると、走り寄ってむさぼりついた。野生のゴリラは毎晩ベッドを樹上や地上に作って寝るのだが、まだベッドを作らずに地上の決まった場所で寝ているとのことだった。
別の場所に、数年前に放された3頭の若いゴリラがいた。もう野生の食物を自分で取って暮らしているという。しかし、ボートの音を聞きつけると水際まで駆け寄ってきた。3頭が肩をすり合わせるように並んで、私たちをじっと見つめている。その目が何とも悲しそうでいたたまれない気持ちになった。「何で僕らを置き去りにしたの?」と訴えているような気がした。まだこのゴリラたちは人間に頼っている。人間が好きで、人間といっしょにいたいのだ。野生の食物を口にしていても、心は人間のもとにある、と私は思った。
親から離されて、子どものときから人間の手で育てられた野生動物に、本来の野生の心を持たせるのはとても難しい。毎日ミルクや食べ物をもらい、体をきれいにしてもらい、抱いて不安な心をなぐさめてもらう。その記憶は長い間消えることがない。本来なら母親や父親、年上のゴリラたちに育てられるはずのゴリラたちが、人間の世話で育った。このゴリラたちは自分の仲間よりも人間が好きになってしまったのである。ゴリラだけではない。チンパンジーやオランウータンなど世界各地に孤児院ができ、野生復帰が試みられているが、まだほとんど成功した例を聞かない。
これは人間の子どもにも当てはまる話だ。「三つ子の魂百まで」というように、幼い頃の経験によって作られた心は、大人になっても変わることがない。生まれて初めて出会う人間に身の回りの世話をしてもらい、何もかも頼って暮らした経験が、人間を信頼して生きる心を作る。逆に、幼い頃に虐待を受けたり、人に裏切られたりした経験は子どもの心に大きな傷を残す。
絵本には書いてはいけないことがあるという。それは、子どもに食べ物を与えてくれる人を決して死なせてはいけないというタブーだ。子どもにとって食べ物を与えてくれる人は、世界を与えてくれる存在である。その人がいなくなったら子どもの世界は消失してしまう。言われてみれば、「赤ずきん」も「3匹の子豚」も、食べ物を与えてくれるお母さんは、いつも陰に隠れて子どもたちを見守っている。それほど食べ物を与えるという行為は、子どもにとって神聖で侵すべからざるものなのである。
食物があふれ、たやすく手に入る現代の私たちは、子どもたちを食べさせることをあまりにも軽んじてはいないだろうか。3年間もお乳を吸って育つゴリラに比べ、人間の子どもはわずか1年足らずで離乳してしまう。しかし、離乳したゴリラはすぐに自立して食べ始めるのに対し、人間の子どもは長い間食べ物を与えられて育つ。食事は単なる栄養補給ではない。子どもたちに安心できる世界を提供し、信頼の芽を育てる大切な機会なのである。
人間にとって野生の心とは何だろう。それは、仲間とともに未知の領域に分け入って新しいことに挑戦する心であり、おそらく幼児のころに形作られる。そのために仲間である人間を信頼し、共通の目標を立てていっしょに歩こうとする気持ちが必要だ。個食が目立つ現代の食事風景を見ると、子どもたちが野生の心を抱けずにいるのではないか、ふと不安に思う。