父親不在の日本社会

山極壽一 (京都大学総長 / PWSプログラム分担者)
2014年12月21日

◎薄れゆく地域の子育て

約20年前に出した本を復刊することになった。「父という余分なもの」というのがそのタイトルである。当時、「人間にとって父親は無用なのか?」と問いただされた記憶がある。真意は、「動物にとって余分なものである父親を作ったことが、人間社会の基本になっている」ということにある。動物のオスは子孫に遺伝子を提供することはあっても、常時子供の世話をする父親になることはまれだ。哺乳類では、育児がメスに偏っており、オスが育児に参加するのはオオカミなどの肉食動物にほぼ限られている。

ではなぜ、人間の社会は父親を作ったのか? それは人間が頭でっかちで成長の遅い子供をたくさん持つようになったからだ。豊かで安全な熱帯雨林を出て、危険で食物の少ない環境に適応するため多産になり、脳を大きくする必要に迫られて身体の成長を遅らせた結果である。母親一人では育児ができなくなり、男が育児に参入するようになった。しかし、育児をするだけでは父親にはなれない。父親とは、共に生きる仲間の合意によって形成される文化的な装置だからである。

ゴリラの社会を見るとそれがよくわかる。ゴリラは霊長類の中でオスが子供の世話をするまれな種であるが、このオスも自分の意志だけでは父親になれない。まずメスから信用されて子供を預けられ、次に子供から頼りにされなければ父親としての行動を発揮できない。オスは母親が置いていった子供たちを一手に引き受け、外敵から守り、子供たちが対等に付き合えるように監督する。父親になったオスはメスや子供たちの期待に応えるように振る舞うのである。

人間の社会は母親や子供だけでなく、隣人の合意も得なければならない。ゴリラは家族的な集団で暮らしているが、人間はどこでも複数の家族が集まった共同体を作るからである。家族と共同体の論理は相反することがある。親子や兄弟は互いにえこひいきするのが当たり前で、何かしてもらってもお返しが義務付けられることはない。しかし、共同体では互酬性が基本で、対等なやり取りが求められる。この二つの論理を両立させられないから、人間以外の霊長類は家族的な小さな集団か、家族のない大きな集団で暮らしている。

人間が二つの相反する論理を両立させることができたのは、複数の男を父親にして共存させることに成功したからである。哺乳類のメスは母親の時期と繁殖可能な時期を重複させることが難しい。授乳を促進するホルモンが排卵を抑制するからである。一方、オスは常に繁殖可能で、メスの発情に応じて交尾をする。人間は男に繁殖と育児の役割を与えて父親を作ったからこそ、女も繁殖と育児の両立が可能になった。だから、女も男も家族と共同体に同時に参加できる社会を作ることができた。えこひいきと互酬性を男女ともに使い分けられるようになった。「父という余分なもの」を利用して親の役割を虚構化し、子育てを共同体内部に拡大して、共感に基づく社会を作ったのである。

しかし、昨今の日本社会を見ると、父親が実際に余分なものになりつつあるようだ。イクメン、イクジイという言葉がはやるように、育児をする男は増えた。だが、家族同士の付き合いは薄れ、地域で共同の子育てをすることが減った。母親と子供だけに認知されたゴリラのような父親が増えているのではないだろうか。経済的に自立できず、結婚できない男性や、結婚せずに、一人で子供を産んで育てる女性が増えていると聞く。これでは、せっかく人間が作り上げた虚構性、すなわち誰もが親になれる社会の許容力と柔軟性が崩れてしまう。

人間がゴリラと違うのは、自分が属する集団に強いアイデンティティーを持ち続け、その集団のために尽くしたいと思う心である。これは子供時代に、すべてをなげうって育ててくれた親や隣人たちの温かい記憶によって支えられている。そして、人間が他者に示す高い共感能力も、家族を超えた子供との触れ合いによって鍛えられる。そのアイデンティティーと共感力が失われたとき、人間は自分と近親者の利益しか考えない極めて利己的な社会を作り始めるだろう。父親を失いつつある日本社会は、その道をひた走ってはいないだろうか。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2014年12月21日掲載「父親不在の日本社会・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。
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