1月の末から2月の初めにかけてロンドンとドイツ・ハイデルベルクを訪問した。京都大学とつながりの深い大学の学長たちと共同研究や学生交流について話し合うのが目的だった。どこの大学も熱心に国際化に取り組んでおり、多くの企業と共同研究を実施し、地元と密接な連携をしているのが印象的だった。
たとえば、ハイデルベルク大学の学生と教職員の数は、ハイデルベルク市の人口約14万人の約3割を占める。市のいたるところに大学の施設があり、学生や教員らしき風情の人々が闊歩(かっぽ)している。市街から少し離れた丘の上に新しい医学や工学の研究施設が建築中で、そばにモダンな学生寮が建ち並んでいた。子供専用の病院も設けられていた。学生食堂でランチを食べたが、支払い方法がいっぷう変わっていた。肉も魚も野菜もフルーツもみんなまとめて重さをはかり、その重さに応じて料金を払う。この方法は人件費の節約に一役買っているという。合理的な思考の好きなドイツ人らしい。
驚いたことに、ハイデルベルクには「哲学の道」がある。ネッカー川沿いの高台にある小道で、対岸のハイデルベルク市街が見下ろせる。道の始点には最先端の物理学教室があって、学者や学生たちが集う。昔から多くの研究者がこの小道を歩いて思索を練ったらしい。私はここに、京都や京都大学との共通点があると強く感じた。
周知のように、京都大学の近くには「哲学の道」がある。琵琶湖から引いた疎水の流れに沿う小道で、明治時代に多くの文人がこのあたりに住んだため「文人の道」と呼ばれたのがきっかけであるという。その後、京都大学の西田幾多郎や田辺元らの哲学者が散策し始め、「哲学の道」と呼ばれるようになった。この道を少し上れば法然院があり、京都の街を遠望できる。木々に囲まれた小道を歩いて自然との対話を楽しみ、人々の日常を遠望する。そこがハイデルベルクと京都の「哲学の道」に共通する特徴だと思う。
人間にとって心地よく思索にふけるためには、自然の中を一人で歩くのが一番だ。目に映る自然のたたずまいや虫や鳥の声は、一人で思索を練ることを可能にさせてくれながら、孤独を感じさせない。都市の街並みを遠望できる立ち位置は、人間の営為を少し離れて眺めようとする境地をもたらす。歩くたびに聞こえてくる自然の音や声は、虫や鳥になって世界を見つめる感性を開いてくれる。
歩く速度も考えるのにちょうどいい。人間は約700万年前にチンパンジーとの共通祖先と分かれてから、最初に直立二足歩行という人間独自の特徴を身につけた。これは、時速4キロぐらいの速度で長い距離を歩くときにエネルギー効率がいい。つまり、人間は歩きながら、歩くことに意識を集中させずに思考を解き放つことができるのだ。走っていたり、自転車や車を運転したりしているときに、自由に考えをめぐらすことはできない。新しい考えは、自然に囲まれた小道を一人で歩いているときに突然宿るのである。
京都は歩く街である。三方を山に囲まれる京都の街には無数の路地があって、1200年の歴史が積み重ねてきた数々の名所旧跡へとつながっている。京都大学の近くには、哲学の道以外にも吉田山や白川疎水など、たくさんの小道がある。これらの道を歩きながら、どれだけ新しい考えが生み出され、世界の隅々へと発信されてきたことか。これはハイデルベルクも同様である。さらに二つの街に共通するのは世界に名だたる観光都市だということだ。世界中から人々が集まり、これらの街の独特な風物に触れ、感動し、心に残るものを得て帰っていく。京都で何かを発信し、それが人々の心を捉えれば、世界中に伝えられることになる。
京都大学の学長になってほぼ半年が過ぎた。その間、いろいろな人の意見を聞いて、私は京都大学のもっとも大きな財産は京都そのものにあると悟った。今、人間の定義や文明の価値が揺らぐなかで、新しい文明論を展開できるのは京都しかない。それは激変する世界の動きに惑わされることなく、静謐(せいひつ)な思索の時をもち、政治、民族、宗教の壁を越えて世界の知が結集できる場所だからである。ぜひとも京都大学をその舞台としたいと思う。