ずっと気になっていたことがある。それは、なぜサルたちは私たちのように群れを自由に出入りしないのだろうか、ということである。
サルのオスもメスも、思春期になるまで決して群れから離れない。子どもが群れからいなくなれば、ほとんどそれは死を意味する。多くのサルたちでは、オスは成長すると群れを出ていくが、メスは自分が生まれた群れにとどまり、子どもを産んでいく。メスが群れを出て行かないのは、出産や子育てをするうえで外へ出て行くことがはなはだしく不利になるからだ。
人間に近い類人猿は、サルとは逆にメスが群れを渡り歩く。ゴリラのオスは思春期に群れを離れることが多いが、他の群れに加入することはない。チンパンジーのオスは一生自分の生まれた群れから離れない。性の季節はサルではオスに、類人猿ではメスに、親元を離れて血縁関係のないパートナーを作るように働きかけるのだ。
奇妙なことに、サルも類人猿も一度群れを離れると、めったに元の群れへ戻ることはない。それは、群れに戻ろうとすると、元の群れの仲間たちから攻撃を受けて追い出されてしまうからである。おそらく、そのサルが不在の間に新しい社会関係ができてしまい、元の関係に戻れなくなってしまうからだと考えられる。いったん群れを離れたゴリラのオスが元いた群れと接触すると、父親や兄弟のオスから強い反発を受けるし、チンパンジーのオスは数週間姿を消しただけで、元の仲間から一斉攻撃を受けて殺されることがある。サルや類人猿の社会では、不在は社会的な死を意味する。不在の後、元の社会関係を修復することは至難の業なのである。
サルや類人猿と比べると、人間は何と許容に満ちた社会を作ってきたことか。私たちは日々さまざまな集団を渡り歩いて暮らしているし、数十年の不在もまるでなかったかのように受け入れてもらうことができる。ただ、それはおそらく最近の人間社会がやっと到達できた仕組みなのではないだろうか。日本でも近年まで住んでいる土地を離れるにはお上の許可が必要だったし、各都市には関所が設けられて出入りが厳しく監視されていた。私がゴリラの調査をしていたアフリカの熱帯雨林では、街道沿いの村の真ん中に壁のない休み場所が設けられている。旅人はそこにまず腰を下ろして自分の素性を述べる。村人はそれを聞いて、群れへの滞在や先へ進むことを許可する。出される飲み物や食事はその判断の結果である。危険と思えば、毒を盛ればいい。文字のない世界で暮らしてきた人々にとって、旅人は外の世界とをつなぐ情報源であると同時に、村に災厄をもたらす源泉でもあるからだ。
そのため、一度出て行った仲間が戻ってきたときも、同じような扱いを受ける。外の世界で何を身につけてきたかを精査する必要があるからだ。ただ、人間は不在の日々があっても親族や幼なじみに頼れるので復帰は困難ではない。人間には元の関係を今の関係に反映させる能力がある。言葉によって不在の仲間のうわさをし、まるでそこにいるかのような扱いをすることができるのだ。父親が長期に海外へ出張しても、食卓にその席は刻印されており、衣服や趣味の品々が父親の存在を常に示し続ける。何より、父親に関するうわさが絶えないことが父親を不在のまま温存することにつながる。父親に限らず、大切な仲間を物によって記憶し、うわさにすることで私たちは不在を黙認し、関係の断絶を留保してきたのではないだろうか。
ところが、昨今の人間社会は次第に不在を許容できなくなっているように私は感じる。常に顔を合わせていないと仲間外れにされたり、携帯電話をオンにして仲間からの問いかけに即座に応じなければ、友達から拒否されたりするような閉鎖的な感性が育ち始めている。人間の信頼が、過去ではなく現在の関係によってしか得られないという極めて短絡的な思考がまん延しているような気がする。それは人間の歴史に逆行し、サルの社会に戻ることだと私は思う。不在を許容し、自在に集団を渡り歩けるからこそ、人間は複雑に分化した社会を築くことができたはずなのだ。IT時代の信頼関係の作り方を、過去を参照してもう一度考え直すべきではないだろうか。