この度、MOOCという「インターネット上で誰もが無料で受講できる大規模な開かれた講義」を手がけることになった。総合大学の学長がMOOCで講義をするのは世界でも初の試みだという。講義は英語でやる。今のところ世界で最も多くの国が理解できる言語といえば、英語かスペイン語かフランス語だろう。このうち私が何とか使える英語を選んだというわけだ。
MOOCの普及に関しては、非英語圏で反対の声もある。英語化を図る米国の国際戦略の一つだというのだ。確かに米国は盛んに他国に大学を創設し、あるいは米国の大学のキャンパスを造り、英語の授業を推進している。英語を通じて米国の文化や思想を普及させ、米国寄りの知識人を増やそうとしているのかもしれない。また、他国から高い授業料を払って米国に留学してくる学生を増やし、私立の多い大学の経営を安定化させようという意図もあるだろう。
MOOCはインターネット用に作られており、いつでもどこでも受講することができる。また、集中力を切らさないため、15分程度に短く切ってある。こういった受講者任せの講義で果たして双方向の、考えさせる講義ができるだろうかという心配もある。もとより私は講義のインターネット化には反対で、大学の講義は対話形式でじっくり時間をかけてやるべきだという持論がある。大学は知識だけではなく、考え方や実践方法を学ぶ場所だからだ。
にもかかわらず、今回MOOCをやることにしたのは、私が学んできた学問を世界に発信する必要性を強く感じたからである。霊長類学、すなわちサルや類人猿の観察を通して人間を知るという学問は、京都大学が発祥の地である。欧米には野生の霊長類が生息していない。動物と人間を連続的に捉える見方が、キリスト教圏では育ちにくかったという背景もある。しかも、日本の霊長類学はすべての生物に社会があるという、欧米の思想ではとても受け入れられない考え方を基にして始まったのである。その創始者である今西錦司の「環境はその生物が認識し、同化した世界であり(環境の主体化)、生物は身体のなかに環境を担いこんでいる(主体の環境化)」などという言葉は難解で、いったいどう訳したらいいのかと悩む。
しかし、今西の「すみわけ」という言葉は日本社会に広く普及し、自然現象ばかりか社会現象にまで応用されている。もともと加茂川の流れの速さに応じて、数種類のヒラタカゲロウが生息場所を分けている現象から発想した概念だ。企業間の共存に同じ言葉が使われるのはおかしい。しかし、日本には「本歌取り」という伝統があり、うまい表現を応用していく技法がよく使われる。「進化」や「共生」という生物学の用語が生物以外の現象に当てはめられるのと同じだ。霊長類学は日本の文化の中にしっかりと根付いているのである。
それならば、日本の霊長類学の考え方を海外の言葉に翻訳して世界に伝えることは、日本の文化や考え方を普及させることにつながるはずだ。霊長類学ばかりではない。西田哲学の無私の思想など、とても外国語に翻訳できそうにない。日本国憲法だってそうだ。条文に書かれた日本語の意味とその奥行きを読み取るためには、外国語では不可能な部分もあるだろう。
しかし、それをあえて外国語で発信することで、日本の文化と思想の入り口を示すことになる。MOOCをきっかけにして日本の考え方に世界の人々が関心を持ってくれればいい。考えてみれば、ギリシャ哲学だって、フランス社会学だって、私たちは日本語に訳して理解している。本当はその考えの底まで日本語では理解が及ばないのかもしれない。でも、それらの思想は世界に流通し、多くの言語に訳され、言語の壁を越えて私たちの知の遺産となっている。
アフリカを歩いてみて、私は日本がまだ空手、カミカゼ、科学技術といった表面的な言葉で語られる国に過ぎないことを知った。日本の思想や文化はまだ世界に理解されてはいない。今の日本に必要な国際化とは、外国語を駆使できる国際人を育成することだけではなく、日本の文化や考え方の国際理解を図ることではないだろうか。大学はその主要な舞台になるべきである。