ゴリラから教わったこと

山極壽一 (京都大学教授)
2016年03月27日

◎命つなぐ時間 大切に

連載も最後になったので、ひとつ言い残しておこうと思う。それは時間の使い方である。

今、私たちは経済的な時間を生きている。そして、自分が自由に使える時間をほしがっている。しかし、自分の時間とはいったいどういう状態のことを言うのだろう。それをどう過ごしたら、幸せな気分になれるのだろうか。

どこの世界でも、人は時間に追われて生活している。私がゴリラを追って分け入ったアフリカの森でもそうだ。晩に食べる食料を集めに森に出かけ、明後日に飲む酒を今日仕込む。昨日農作業を手伝ってもらったので、明日ヤギをつぶした際に取り分けて返そうとする。それは、つきつめて考えれば、人間が使う時間が必ず他者とつながっているからである。時間は自分だけで使えない。ともに生きている仲間の時間と速度を合わせ、どこかで重なり合わせなければならない。だから、森の外から流入する物資や人の動きに左右されてしまう。

ゴリラといっしょに暮らしてみて私が教わったことは、互いの存在を認め合っている時間の大切さである。野生のゴリラは長い間人間に追い立てられてきたので、私たちに強い敵意をもっている。しかし、辛抱強く接近すれば、いつかは敵意を解き、いっしょにいることを許してくれる。それは、ともにいる時間が経過するに従い信頼関係が増すからである。ゴリラたち自身も、信頼できる仲間といっしょに暮らすことを好む。食物や繁殖相手をめぐるトラブルによって信頼が断たれ、離れて行くゴリラもいるが、やがてまた別の仲間といっしょになって群れを作る。とくに、子どもゴリラは周囲のゴリラたちを引き付ける。子どもが遊びに来れば、大きなオスゴリラでも喜んで背中を貸すし、悲鳴を上げれば、すっ飛んできて守ろうとする。ゴリラたちには、自分だけの時間がないように見える。

人間も実はつい最近まで、自分だけの時間にそれほど固執していなかったのではないだろうか。とりわけ、木や紙で作られた家に住んできた日本人は、隣人の息遣いから完全に隔絶することはできず、常に誰かと分かち合う時間の中で暮らしてきた。それが原因で、うっとうしくなったり、ストレスを高めたりすることがあったと思う。だからこそ、戦後に高度経済成長を遂げた日本人は、他人に邪魔されずに自分だけで使える時間をひたすら追い求めた。そこで、効率化や経済化の観点から時間を定義する必要が生じた。つまり、時間はコストであり、金に換算できるという考え方である。

しかし、物資の流通や情報技術の高度化を通じて時間を節約した結果、せっかく得た自分だけの時間をも同じように効率化の対象にしてしまった。自分の欲求を最大限満たすために、効率的な過ごし方を考える。映画を見て、スポーツを観戦し、ショッピングを楽しんで、ぜいたくな食事をする。自分で稼いだお金で、どれだけ自分がやりたいことが可能かを考える。でも、それは自分が節約した時間と同じ考え方なので、いつまでたっても満たされることがない。そればかりか、自分の時間が増えれば増えるほど、孤独になって時間をもてあますようになる。

それは、そもそも人間が独りで時間を使うようにできていないからである。700万年の進化の過程で、人間は高い共感力を手に入れた。他者の中に自分を見るようになり、他者の目で自分を定義するようになった。独りでいても、親しい仲間のことを考えるし、隣人たちの喜怒哀楽に大きく影響される。ゴリラ以上に、人間は時間を他者と重ね合わせて生きているのである。仲間に自分の時間を差し出し、仲間からも時間をもらいながら、互酬性にもとづいた暮らしを営んできた。幸福は仲間とともに感じるもので、信頼はお金や言葉ではなく、ともに生きた時間によって強められるものだからである。

世界は今、多くの敵意に満ちており、孤独な人間が増えている。それは経済的な時間概念によって作り出されたものだ。それを社会的な時間に変えて、いのちをつなぐ時間を取り戻すことが必要ではないだろうか。ゴリラと同じように、敵意はともにいる時間によって解消できると思うからである。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2016年03月27日掲載「ゴリラから教わったこと・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。